2022-07-26

10年ぶりに自画像を描く

 私はあまり自画像は描きませんが、前描いたのがちょうど10年前の2012年だったので、ちょうど区切りもいいので描いてみました。自画像描いたら描いたでまた自分のこと何か分かるかもしれないとも思いまして。まず10年前、2012年の自画像から。


自画像 27.2×22㎝ 油彩 2012年


そしてこれが今回描いたもの。同じF3号サイズ。ただしキャンバスは手作りの荒目を使用。あとでサインの位置変えたんですが。

自画像 27.2×22㎝ 油彩 2022年

うーん、さすがに年とったよなあ。それはしょうがないとして、なんか疲れが出てる、憔悴してる感じ。年とったというより骸骨じみてきた感じがします。まあ、年とるということは骸骨になる方向へ近づいていくということですが・・・。

それとさすがに細かく描くことはしにくくなってきましたね。しにくいし、やりたくない。ならばもうフェルメールの模写なんて難しいのかも・・・。なんてたってフェルメールは40歳で死んだ若い画家ですからね。もっともフェルメールも30代後半では、細かく描くことはできにくくなっていたようで晩年の作品はディテールが荒いことで有名です。私は、彼がカメラ・オブスキュラを使って描くことによって、それで何か眼を悪くさせることがあったんじゃないかと疑っているんですが・・・。

2022-07-23

「はると」という名前はワシが流行らせた

 みなさんも「これ俺がもとで流行ったんじゃないか?」って思っていることってあるでしょう? 私もあります。それは今、男の子につける名前として1番人気の「はると」という名前です。

私はかつてウェブで漫画を発表していたことがあります。(ちなみに商業誌に十数ページの作品を2度ほど掲載していただいたこともあります) そのときの作品のひとつの主人公が「はると」だったのです。下のがその作品です。少年変身ヒーローもののパロディーみたいな漫画。本名は「晴人」でしたが、作中ではほとんど「ハルト」の表記で通しました。 



この作品は5回に分けて、2003年の上半期にアップしていました。そして2003年こそ「はると」という名が、男児につける名前として初ランキング(8位)した年なのです。ちなみに「はると」は、翌年2004年が3位、2005年が2位、2006年についに1位となっています。

もちろん「はると」という名前は特別珍しくないわけで昔からあります。現にうちにある「桃太郎と邪馬台国」(講談社現代新書)と言う本の著者さんの名前が、前田晴人(まえだはると)で、この方は1949年生まれです。阪神タイガースの高橋遥人投手は1995年生まれ。

よく安室奈美恵さんの御長男さんが温大(はると)さんで、ここから広まったんじゃないかと言われることがあるようですが、この方が生まれたのは1998年ですので、ランキングに入った2003年とは5年も間隔があり、ちょっと空き過ぎだと思います。

私自身は我田引水と思われるかもしれませんが、自分の作品から「はると」が流行ったのだという手ごたえを持っています。無料漫画でしたから結構な数の人にも読まれてましたし、すぐ直後に「同じ晴人(漢字も同じ)という名前の登場人物が商業誌に出ていた」という書き込みも私の掲示板にあったほどですから。(私もその漫画を確認したのですが、何という漫画かは忘れました)

ちなみに私はその「はると」と言う名前を、第二次世界大戦のドイツ空軍の撃墜王エーリヒ・ハルトマンからとり、そのことも自分の掲示板に書きましたが、そののち「ドラえもん」の映画で「クルト・ハルトマン」という男の子キャラが出ていて、コーヒー吹いた覚えがあります。

まあ、言わせといたって。

2022-07-04

夢日記は数年後読み返すと意味がはっきり分かる

  私は、気になった夢、怖かった夢を記録しています。それを何年も経ってから読むと、意味が驚くほど分かるからです。記録する時は、「なんだかわけのわからない夢だ」としか思わないんですけど、あとあとになって読むと、「おまえ、作ってるやろ」というくらい、意味がはっきり分かるのです。一例を言うと、私は昔から時々、刃物を持った見知らぬ男、一種の無差別殺人者に襲われる夢を見ます。私の経験からすると、この夢を見るときは大抵、自分が生まれ変わるときです。今こそ古い自分はいなくなる、つまり殺されるというわけです。知っている人が襲ってきたら、その人と自分とに何か確執があるということなのでしょうけど。

2022-06-28

同じような本ばかりが出る落とし穴

  何冊も同じ内容の本書いてる作家さんていますよね。おそらくは最初に書いた本が当たって信奉者がついたら、あの手この手で体裁換えて同じこと書くだけで(しばらくは)新刊を出すたびに売れる、だから出すのでしょう。実際のところ、自己啓発本なんてのは、最初の1冊でその著者の言いたいことは語り尽くされている気がします。自己啓発に限らず、フェルメールとか戦艦大和などもどれだけ毎年似たような本出しているのかと。

しかしたとえばその本の言わんとしているところがとどのつまり「自分の頭で考えよう」ってことだったら、なんだか妙な気がします。そういった本には、私はこうして成功したというところから、こうやって電気代を下げることができたとか小さなことまで、成功例、人生訓がたくさん書いてあるわけですが、いくら例を列記しようが、結局「自分の頭で考える」ということが一番大事で、それが「核」なら、「核」がつかめたときに読者も、何例も何例も続けてお話を賜ることもないと思うからです。これじゃ読者の人は「自分で考える人」になれてないやんと。

「本音で生きよう」なんていうのもそうです。本を読んで啓発されて、本音で生きれる人間に変わることはないとは言いませんが、大抵の場合、その本を読んでいるときだけ「そうだ。本音が大切だ。うん」とか納得、気分が勝手に高揚するだけで、そこで止まっているんじゃないのか。こういう人は、その著者の本が新しく次に出たら、また「読んでいるときだけの高揚」のために、その本を買っちゃうのではないか。

もっともこういう「同じ本連発」は、出版社がリードしてやるのでしょう。書き手の人自身は、それほど次から次へと同じ内容で出したいわけでもないのに、出版社のほうが口八丁でうまいことのせてしまうのかもしれません。ノリスケみたいに。

2022-04-04

人間はなぜ人間になったか~武器を外に持つ動物

 誰でも納得のいく人生を送りたい。しかしその納得の規準には、ただ「したいことをできてきたか」という個別的なもの以外に、巨視的な基準もあるべきだと思う。巨視的な基準とは何か。それは「人間としての」行動の正統性があるのかどうかだ。そしてそれは「人間はなぜ人間になったか」というところにある気が私はするのである。

初心に帰れというわけだ。もちろん、当の人間である私が、人間が人間になった理由を知らないのも妙だという気もする。そんなことはいちいち考えなくとも、もう私は知っているはずではないか? いや、私は生まれたときから人間であるのだから、知らなくて当たり前であり、その体系が真であるかはその体系の中では証明できないという箴言のとおり、むしろ人間が「人間はなぜ人間になったか」を解明することはできないのではないかとも思う。さらにはどちらにせよ、そんなことは考え込むだけ無駄なのかもしれないとも思う。

私が人間の行動基準として「人間はなぜ人間になったか」にこだわるのは、どの動物も「進んで」そのような動物になったと信じるところがあるからだ。キリンは首と脚が長い動物になりたいからそうなったのであり、コウモリは空を飛びたいから飛べるようになった。そうなりたい意志の他に、そのような動物が生まれる根拠はないと思うからである。神様が「おまえは首を長くしてあげよう、そっちのおまえは空を飛べるようにしてあげよう」と長所を分配してくれたなんて思えない。首が長いとか、空を飛べるというのが長所、つまりその動物たちの武器であるならば、やはりそれはその動物たちがそれを欲したからそのようになったのではないか。もちろん長所として伸ばしたその部分は最初から長所であったからさらに伸ばそうとしたのだと思うが。

ともあれ、主体的意志によってそのようになったのなら、その主体的意志は今も存在していて、それは受け継がれ、その動物特有の行動の最大の契機となっているはずではないか。ゆえに私は「人間はなぜ人間になったか」という問い、その答に、人間としての行動の正統性があると考えるのだ。もちろん欲して体が変化するというメカニズム自体は依然ブラックボックスなのだが、何かのきっかけがあれば、生物は欲した体に変化するのだということを前提にして「人間はなぜ人間になったか」ということを以下考えてみた。

「人間はなぜ人間になったか」という考察を進めたいなら、まず「人間とは何か」、つまり「人間とはどういう動物か」、「人間が他の動物と違うところは何か」を明確にしなければならないであろう。

ちまたではよく「人間とは道具を使う動物である」とか、「人間とは言葉を使う動物である」とか言われている。しかし、道具にしても言葉にしても人間しか使わないのだから、これでは「人間とは人間である」と言っているのと同じである。特性というものはあくまで相対的に捉えられねば、それが他者と異なるところとして浮き彫りになってこないのは自明であろう。

そこで、その相対性を明示できる概念として上記にも出した「武器」という言葉を用いたい。ここでいう武器の定義は、生存に有利に働く特性という意味である。キリンは長い首と脚が武器であり、コウモリは空を飛べ、獲物を見つけることができる超音波発信が武器ということだ。つまり、人間は他の動物たちとは違い何を武器としているか、それを知ることで人間という生物が定義できるのではないかと思うのだ。

そしてそれであれば答は簡単なように思える。人間の武器は、頭脳であると。他の動物にも頭脳はあるが、人間においてとびきり進化した頭脳。手先の器用さ(イコール二足歩行)も挙げてもいいが、手先の器用さというのは、頭脳の命令するところを実行する補助的なものに過ぎない。人間しか使わない「道具」にしても「言葉」にしても頭脳から生まれたものだ。他の動物においても自動整備されたような補助的な武器がたくさんあるが、それはやはり補助にすぎない。人間を人間たらしめているメインの武器は、やはり頭脳ではないかと。しかし――。

しかし妙なことに、この頭脳なる武器は、他の動物が持っている「武器」とは根本的に立ち位置が違うことにもすぐに気づこう。優れた頭脳は今言う「武器」そのものにはならないからだ。つまり他の動物は、武器を自分の体そのものに持っている。キリンは長い首を、コウモリは空中を飛ぶハネを。ところが人間の頭脳は他の動物が持っている武器と同じレベルの役割は果たしていないのである。むしろそれは武器を作るための武器という、今言う武器というものの1段奥側に位置しているものとなっている。

たとえば人間は毛がない。しかし凍死しない。それは衣服なるものを頭脳的に編み出してそれを着ているからだ。この場合、他の動物においての武器、つまり毛に該当しているのは衣服だ。頭脳ではない。そしてここが肝心な点なのだ。人間が持つ他の道具、いや社会システムなどもすべてが衣服と同じ位置にあるという事実である。つまり頭脳は頭脳として大きな機能を持っているとはいえ、それは今ここで定義している動物が持つ武器とは異なる。むしろ持ちたい武器という目標が先にあり、「優れた頭脳」とやらはそれの達成のためにあとからできたもの、つまり「人間は優れた頭脳を持つ動物」というべきではなく、次のように定義すべきではないか。

人間とは武器を外に持つ動物である。

これは裏返して言えば、何も持ってない動物とも言ってよい。動物と違い、毛もないなら、牙も爪も退化している。

では、どのような考えで最初の人間は、武器を外に持とうなどと意志したのだろうか。

確かにある意味、武器を外に持つことは内に持つより有利である。武器を改良発展させていくことができるからだ。また、他の動物の武器(長所)を模倣していろいろな武器を持つこともできる。人間は鳥の真似をして空を飛ぶことさえできるようになった。キリンはあれ以上首を伸ばすことも、また別の武器をもつことも簡単ではないだろう。

しかし武器を外に持つことはデメリットも大きい。まずそれを作り上げなくてはならない。維持しなくてはならない。つまり生命にとって本質的なものでないところの余計な義務、いわゆる「労働」を生じさせもするからである。この労働を楽しいものにしようといろいろ頭脳は考えてくれもするわけだが。


望郷 24.2×33.3㎝ 油彩

人間だけが言語をもったり、神を発明したり、真理を追究したり、芸術作品を作るのも、武器が全部外に行ってしまったからだろう。言語、神、真理、芸術作品、これらも全部、外にあるものだ。たとえば言語。外にある言語なるものを人間Aと人間Bが共有できる場合においてのみしか言語は有効ではない。言語がたくさんの種類に分かれているのはそれが外にあるものだからである。逆に言えば、人間が言語だの神だの真理だの芸術だのと呼ぶものに該当するものを、別の形で動物たちは最初からその体に持っていると考えられるということでもある。

また今ひとつのデメリットとして、人間が外に持つ武器はすべて一時的な代替品、いわば作り物に過ぎないので、簡単に否定もされるし、より素晴らしい代替品が出てくるとすぐさまゴミとなったりするという点もある。作り物であるがゆえの否定の連なりが「歴史」と呼ばれているものだ。ゴミをとっておく場所は博物館などとも呼ばれている。

もっとも歴史などというものを持たない民族も多くおり、そういう民族はある安定を得た時点で「否定」は永遠に続きかねない奈落に落ちる危険な行為ということで、「否定」をやめたのかもしれない。その無限の「否定」のループに陥らないために発明された歯止めこそ神であった。神はすべてを説明してくれるジョーカーだ。逆に、いわゆる文明人は否定ばかりしているので、神まで否定し、おかげで忙しく発展とやらをし続けている。神になる日までそれは止まらないのかもしれない。

それでは人間は、外に持つ武器の方が発展性を持つという点でフレキシブルであり、生存には圧倒的に有利ということで、そっちを選んだのだろうか。それとも気づいたときにはすべてが外に放出されていて、それで頭脳と器用な手先を利用して、外に武器を作ることに決めた、つまり頭脳に賭けたという順序なのだろうか。それとも両方ともが理由で、すなわち変化は二段階にして起こったのだろうか。それともすべて同時に起こったのだろうか。

どちらにせよ、人間が武器を体に持たない、弱くのろまな裸の動物だったことは確かであろう。それはすでによく言われているように、人間は胎児状態で生まれてきてしまったからかもしれない。あるいは人間は自分から進んで胎児という安全な状態に逃げ込んだからかもしれないし、あるいはこれも両方が理由で、二段階のステップを踏んだのかもしれない。胎内、そして乳児期のあいだ、人間は守られている状態にある。そんな守られている状態へ逃げたからこそ、その状態を維持するために物を作らなくては、つまり人工環境を作らなくては、いわば胎内を再現しなくてはならなくなり、したくもない「労働」なるものが発生するという矛盾というかリスクも負うことになったのかもしれない。また、同時にそのような「つらいこと」をやらなければいけないリスクを抱えたために、反動として歓喜というものを得ることもできるようになったのかもしれない。笑う動物は人間だけだ。

どちらにせよ、人間には持てる肉体の中に、そこを伸ばせば有利になると賭けられるような優れたところはひとつもなかった。そこで他の動物が思いつかないような発想をした。それが頭脳に賭けることだったのだ。かくて頭脳が発達した。これは外に武器を持つこと、武器を自分で作ることを「決意した」と言い換えてもいい。ある意味、リスクを抱える賭けに自ら身を投じたのだ。

だから人間はいつも、外に何か探している。外に何か作っている。自分の内には何もないからだ。そう、自分の内には何もない。武器も、社会も、言語も、もしかしたら「自分」でさえも! 

ここで「外に武器を持つ」という人間の特性は、さらに次のように言い換えられることに気づく。人間とは人工環境を作り、そこで生きていく動物だと。

そこでは「自分」というものこそもっとも人工的なものなのかもしれない。なぜなら「自分」とはかつて全体であったものが、かろうじて個人に残った断片だと考えられるからだ。本来の全体的な「自分」(プレ自分と言うべきか)も失われてどこかへ行ってしまったのである。もうそれも内にはない。

かように胎児時期の完全性が壊されて個にそれが限定されていくに従い「自分」なるものが発生するのだ。だから胎児時期、乳児時期の記憶がそれを過ぎてしまった人間にはない。「自分」が断片に過ぎないという意識だけがあって!

これは多くの人が幼少期に経験があることのようだが、私も小学2年生のとき、突然襲ってきた「自分って何だ?」という疑問に驚きを覚えた記憶がある。自分と言うものが存在している驚きと言ってもいいかもしれない。なんでこの自分だけを自分は自分と意識しているのか? A君も私と同じ人間らしいのに、なんでA君は自分ではないのか? A君の中にもA君の自分がいるのだろうか? A君の自分と私の自分となぜ自分が別々にあるのか。この今自分を考えている自分の中にだけにいる自分とは何なのか? それはそもそもどこに位置しているのか? もちろんそのときはその疑問にただ呆然とするだけで何も答は得られなかったが、今思うに、「自分」は本来このような個に帰する断片なのではなく、もっと全体的な存在だったはずであり、「自分」とはその全体的存在の残滓にすぎず、それゆえに「自分」は全体性を回復する足場になっていて、それこそが人間を人間たらしめている、すなわち武器を外に持つという行為もさせているということなのかもしれないとも感じる。(ちなみにそれがなぜ小学2年のときだったと覚えているかというと、そのとき目に見えている世界の存在も驚きだったからだ。それはすぐ外に渡り廊下と暗い階段と流し場が見えている小学2年3組の教室であった)

人間が他の動物と違い、他の人間がいないと人間になれないのも、すべてが外に放出されたためだろう。つまり人間の外にしか人間はないのだ。しかし外にいる人間にとっても、外にいる人間にしか人間はいないわけだから、つまり人間は人と人との間にしか存在していない。「人間」とはよく言ったものだ。

内に何も持っていないからこそ外に作るしかない、だから作ろう。そこにはつらいリスクもあるが、きっとより大きな歓喜がある! そう決意した時に人間は誕生したのではないか。そしてその瞬間、頭脳は飛躍し、同時により胎児化(たとえばより毛がなくなる。より物心がつくまでの乳児期の期間が長くなるなど)の方向にも行ったのではないか。これが私の「人間はなぜ人間になったか」の今のところの回答である。
そう、今だって実は何もないのかもしれない。だから「作る」。芸術作品というのは、内に何もないから「作る」という人間の根源的行為の産物の中で、特に実用から切り離され純化されたものをそう呼んでいるのだ。芸術作品に虚無とリスクと歓喜とが同時に現れるのはそのためだろう。

2022-02-18

山本五十六神話はなぜ生まれたか~真珠湾攻撃は山本五十六のせいにせよ!

  目  次

1.映画『トラ!トラ!トラ!』の不思議

2.危険な真珠湾攻撃がなぜ決行されたか

3.真珠湾攻撃は山本五十六のせいにせよ!


 1.映画『トラ!トラ!トラ!』の不思議

昨年末は、真珠湾攻撃から80年ということで、いろいろ特別番組もあったようだが、昔から12月8日を迎えると、必ず放映される映画がある。『トラ!トラ!トラ!』(20世紀フォックス社 1970年制作)だ。私も結構見た口だが、この映画には大きな疑問がふたつあった。ひとつはこの映画、日本側部分は日本で日本人スタッフと日本人キャストによって撮影されたものの、実質は資本ともどもハリウッド映画、なのにあまりに日本人が喜ぶ内容になっているからだ。

ご存じのように、真珠湾攻撃は日本側の奇襲だったので、アメリカは一方的にやられただけであった。だからこの映画でも、アメリカのいい場面はほとんどない。史実再現映画と言ってしまえばそれまでだが、それにしても日本寄りすぎるのである。そんなものをこれほどの莫大な費用を投じてアメリカが作ったというのが実に不思議に思えたのだ。

特に圧巻はオープニング(タイトル・シークエンス)である。新たな連合艦隊司令長官山本五十六を真白い夏服の海軍将兵が登舷礼で迎えるシーン。なんと原寸大の戦艦長門をセットで作っているのだ。しかもほとんどこのオープニングだけのためにである。真っ青な空と海に悠然とひるがえる赤い日の丸と軍艦旗。まさに在りし日の帝国海軍の威容である。

とにかくクライマックスの真珠湾攻撃シーンといい、金のかけ方がすごい。それが、日本人をして往年の海軍の栄光に陶酔させるために投じられたとしか思えないのである。しかも現アメリカ海軍が空母などを撮影のために無償提供したというのだからもはや驚く以外にない。

映画というのはときに政治目的のために作られることがある。そのとき巨額の製作費補助もその筋からもたらされるのであろう。あの黒澤明の名作『七人の侍』なども、自衛隊発足と同じ1954年の制作なので、再軍備を国民に納得させるために作られたのではないかという噂がある。この莫大な制作費を投じられた映画『トラ!トラ!トラ!』もそうだったのではあるまいか。この映画はその公開2年後の1972年――今からちょうど50年前――の沖縄返還を感情的にスムーズに行かせるため、作られたのではないかと私には思えるのだ。

アメリカは沖縄を、非戦闘民も巻き込んだ戦闘ののち、戦後も22年にわたって占領し続けた(今も?)。日本人の中には、返還を契機にそのような屈辱の記憶、アメリカへの敵意をぶり返させてしまう者も出てくるかもしれない。そこで中和剤として取り上げられたのが真珠湾攻撃であった。「そうかあ、俺たちだって、昔はこんな強力な軍隊を持っていて、それでアメリカの真珠湾を一方的に攻撃、粉砕したんだよなあ」と気持ちよく日本人に思い出してもらえたら、つつがなくことは運ばれるというものである。

しかし『トラ!トラ!トラ!』はそののちも毎年12月8日が来ると必ずテレビで放映されている。これはなぜだろうか? これは、沖縄を占領し続けたことのみならず、日本人の腹の底にいまだ慢性的にわだかまっているアメリカに対する屈辱の記憶、アメリカへの敵意をまぎらわせ続けるためではないのだろうか?

日本は、その付き合いが始まったときから、アメリカにやられっ放しである。ペリーによる恐喝強制開港に始まり、不平等条約の押し付け。そして対米戦争直前には、日本が北部仏印(現在のベトナム北部)へ進駐したことによる日本への屑鉄禁輸、つづき南部仏印(現在のベトナム南部)へ進駐したことによる石油禁輸(ここらは後述するように、日本もつけこまれることをしていて言い訳できないのだが)。さらには戦争が始まれば無差別空襲に原爆――。こんな歴史の中では、アメリカに対する日本人の留飲が下がるものといえば真珠湾攻撃がその最大のものであるのは間違いない(他にもアメリカがわざと譲ってくれてるものがある気もするけど……)。実際のところ、真珠湾攻撃をやった動機自体、アメリカへの積み重なった憎しみ、アメリカを一度は泥にまみれさせてみたかったというのはあるのだろう。

しかし、真珠湾攻撃は正々堂々とした行為とはとても言えず、はっきり言って卑怯なものであった。不意打ちを不意打ちとして成功させるために最後まで和平交渉を続けるふりをしたのだから(これも詳細は後述する)。この汚さをそのまま映画で描いては日本人にとってのカタルシスにはならない。ゆえに真珠湾攻撃の映画化において、日本人観客を気持ちよくさせるためには、「汚さ」を隠蔽する必要があった。つまり、クリーン、むしろ平和主義的で、スマートで大胆、頭がいい、そういったプラスのイメージを付け加えて、卑怯さをこの歴史エピソードから払拭する必要がある。

こう書くと、映画『トラ!トラ!トラ!』において、そのプラスのイメージが何か、観た方にはすぐ分かるであろう。

山村聰演じるカッコ良すぎる山本五十六連合艦隊司令長官である。

しかしカッコよく描くのは映画だからある程度はいいとしても、この映画ではまるで、山本五十六ひとりが真珠湾攻撃を進めていったかのように描かれているのだ。

そう、これが映画『トラ!トラ!トラ!』における私のもうひとつの疑問なのである。この映画では山本五十六が「日米戦避け得ざる時、私が連合艦隊司令長官であるかぎり真珠湾攻撃は必ずやる!」と連合艦隊幕僚たちを一喝するシーンがあるのだが、連合艦隊司令長官にはそのような権限はないのである。そう言えるのは海軍の作戦を決める軍令部のトップたる軍令部総長だけだ。ところがこの映画には軍令部自体が出てこない。どちらにせよ軍令部総長が認可し、さらに軍の大元帥である天皇が裁可しないとこのような大作戦はおこない得ないものである。つまり真珠湾攻撃は山本五十六が押し切ってやったものではなく、海軍上層部、国家上層部のコンセンサスはとれていたはずなのである。

なのに、なぜ「山本五十六が真珠湾攻撃を敢行した」――このように(もちろんこの映画の前からも)捉えられている。これは一体なぜだろうか?  


2.危険な真珠湾攻撃がなぜ決行されたか

それを考える前に、まずは、真珠湾攻撃実行の経緯を確認しておこう。(真珠湾攻撃や対米戦争が起こった理由に興味がない方は、この「2」は飛ばして、結論である「3」だけを読んでくださっても結構です) 

真珠湾攻撃のコンセンサスはとれていた――と言ったが、真珠湾攻撃は決して容易に決定、遂行できる代物ではなかった。あまりに危険な大博打の作戦だったからだ。結果的に奇襲としては成功したから一部で賞賛されつづけているだけで、当時反対した海軍軍人たちはいたし、今考えても反対するのは間違えていないと私は思う。

なぜ、こんな危険な作戦を日本はやったのか。まずは、そこを確認にしておこう。

1939年、日本陸軍は泥沼化した日中戦争をどう終わらせてよいか分からず頭を抱えていた。そこに渡りに船となったのが1939年に勃発した第二次大戦、その初頭におけるドイツの欧州での快進撃であった。1940年フランスがドイツに敗れたことに乗じて、日本はフランス領ベトナム北部、つまり北部仏印に兵を進駐させることをフランス駐屯軍に認めさせることに成功する。これはここが連合国の中国への物資支援ルートになっていたからである。のみならず日本はここで「ドイツよ、ありがとう!」とドイツと同盟まで結んでしまう。有名な三国同盟である。これに対して連合国の一員であるアメリカは日本への屑鉄輸出を禁止して反発するが、翌年続いてドイツがソ連に侵攻すると、日本はさらなる中国支援ルートの封鎖のために南部仏印にまで兵を進駐させ、アメリカから石油禁輸という経済制裁を受けてしまう。石油輸出再開のための交渉は難航。大陸から兵を引きたくない日本は石油をとりに南進、つまり英領マレーから蘭印(現在のマレーシアとインドネシア)に攻め込もうと考える。が、そうなったら米領フィリピンも巻き込まないわけにはいかず、またアングロサクソン紐帯もあるだろうことで、アメリカとの戦いは避けられない事態となった。

確かにアメリカと戦うなら、ハワイの米太平洋艦隊を開戦しょっぱなでつぶしておく、それはそうしてしまうに越したことはなかったであろう。だが、真珠湾奇襲は事前の図上演習で、攻撃直前に日本の空母部隊は米に発見され、相当の被害が出るという結果が出ていた。空母は防御力が非常に弱い。結果的に海軍は竣工したばかりの大型空母2隻を含め、持てる6隻の主力空母すべてを真珠湾攻撃に投入したわけだが、次に新しい主力空母が竣工するのは真珠湾攻撃から2年以上もあとで、この6隻は初戦で簡単に失うことができないものであった。

また攻撃当日、敵の主力艦が真珠湾内にいる保証はなく、奇襲は空振りにおわる可能性もあった。(結果として、近く日本が戦争を仕掛けてくることを読んでいたアメリカは、戦争準備としてハワイの近くのウェーク島やマーシャル島に飛行機を運ぶために空母をフル稼働させていたため、攻撃当日空母は一隻も真珠湾にいなかった)

さらに、真珠湾攻撃は戦略的にもどうしてもやらずに済まされなかったものでもなかった。現在真珠湾攻撃をおこなった理由として「当面の目的である南方進攻を成功させるため」という説明が一般化しているが、実は当時の軍令部では「必要不可欠の作戦に非ず」との認識が持たれていたのである。もし南進を成功させるうえで真珠湾攻撃が「どうしても」やる必要なものであったのなら、最初から艦隊は奇襲成功後もそこにとどまり、徹底的に真珠湾を破壊する作戦をとったであったろう。しかし実際には「最初から」すべての艦載機が一度出撃するだけで、すぐに日本に帰還する段どりだったのである。事実その後、真珠湾で難をのがれた米空母などは、日本軍の南方進攻自体は妨害できず、ハワイ近くのウェーク島、マーシャル諸島という小島において日本軍と散発的に出たり逃げたりの戦闘を繰りかえしたにすぎない。機動性のある空母でそれだから、真珠湾の旧式鈍足米戦艦部隊に何ができたであろう。アメリカがその工業力に物を言わせて日本軍を圧倒しだすのは、真珠湾攻撃から2年後のことで、開戦当時の海軍力は、太平洋においてはむしろ日本海軍の力のほうが上回っていたのである。つまり真珠湾攻撃はまったく南進に対する効果がないわけではないし、気分的には利すところはあったには違いないが、南進のために「どうしても」というものではなかったのだ。(むしろ南進のために有効だったのは真珠湾攻撃2日後のマレー沖海戦でシンガポールを基地とする英国の2戦艦を航空攻撃のみで沈めたことのほうだった。これにおびえて、インド洋の英国東洋艦隊主力は撃って出ることができなくなってしまったからである)

真珠湾攻撃のデメリットはまだある。やらなかったら大国アメリカを必要以上に怒らせることもなかったということだ。もっともこれは、軍内部では「弱腰」と非難されかねないものだったのであまり口にされた形跡はない。だが、結果としては一番のしっぺ返しの原因となった。真珠湾で沈められた4隻の戦艦はペリーがつれてきた4隻の戦艦(黒船)に対応していると言われることがある。これは偶然とするにしても、真珠湾攻撃で完全に失われたアリゾナ、オクラホマという米州の名前がついた2隻の戦艦が(他の2隻は引き揚げられて戦線復帰した)広島、長崎という日本の2都市と対応していなかったとも限らないからだ。実は東京裁判で海軍からA級戦犯の死刑者が出なかったのもこれが理由だろうと私は睨んでいる。原爆は真珠湾攻撃の仕返しであったが、仕返しとしてはやりすぎだったとアメリカも罪悪感を持っているため、真珠湾攻撃を行った者らつまり日本海軍幹部はその罪を免除されたのではなかったか?

ともあれ以上、当初、海軍内部でも真珠湾攻撃に猛反対の声があったのは、これら「返り討ちにあい、貴重な戦力を初戦で失うというリスクの高さ」「敵艦隊が在泊してる保証のなさ」「戦略的にやる絶対の必要性のなさ」「米を刺激しすぎる」とまずい条件が重なり過ぎていたからである。

なのにこの作戦は実行された。一般に流布しているところでは、軍令部はこの作戦に反対したものの、山本五十六がこの作戦が実行できないなら連合艦隊司令長官を辞めると主張したので、永野修身軍令部総長が「それほど山本がやりたがってるならやらせてみようじゃないか」と言って採決したといわれている。しかし、この「退職脅迫」は山本自身でなくその部下の黒島亀人先任参謀が「真珠湾やれないなら、山本さん、長官やめるってよ」と伝えたものにすぎない。あやしい。そもそもこんな国運を賭けた危険な作戦を「やりたがってるから」という個人のわがままに個人的判断で応えて決めちゃう最高作戦指導者などいないだろう。のみならずこの部下の伝言による山本の「退職脅迫」はのちのミッドウェー作戦でも使われており、やはり同じ理由で承認されたといわれている。二度も同じ手が使われているのはいよいよあやしい。そもそもこれでは軍令部と連合艦隊の立場が逆転している。おそらくは両作戦の場合ともこの経緯はウソである。

それでは真珠湾攻撃などと言う大それたことをやったコンセンサスはどこにあったか?

ひとつの理由として、きわめて単純に「交戦国のどちらかが一度しか使えない開戦いきなりの不意打ちで、できるだけ大きな戦果を挙げるのがもっともおいしい」という判断があったからだ。これは誰も否定できまい。アメリカは大義名分の面からも戦争への準備不足の面からも自分からは打って出れない。ならば不意打ちというボーナスポイントのカードは日本側にある。このカードを使わない手はないというわけだ。

そのうえ真珠湾攻撃に投入された空母航空隊は、選抜され、特別に事前訓練を施されたエリート部隊で、日本海軍としてはこのメンバーだけでアメリカと勝負しなければいけないのが現実なのもあった。飛行機もパイロットの養成も、アメリカのようにふんだんな資源、科学力、工業力基盤による今後の補充など見込めないからである。実際のところ、日本が戦争中に作った新兵器も新兵も急ごしらえの無理強いもので、ほとんど役に立たなかった。ならばいよいよ、敵の反撃をほとんど受けない不意打ち、初戦いきなりのヒットアンドアウェイはやりたくなろう。(ちなみに上述の『七人の侍』でも侍、農民連合軍が野武士のアジトに先に奇襲をかけているのだが、アメリカでのリメイク版である『荒野の七人』にはこのような場面はない)

真珠湾攻撃をやるべき理由はもうひとつあった。これはあまり話題になることがないのだが、南進中に、本土を米艦隊におそわれる恐怖があったことだ。いわば真珠湾攻撃とは逆のことをされる恐怖。言いかえると、ロシアに対する朝鮮半島や満州のようなバッファーゾーンが対アメリカにはなかったので、その代わりに真珠湾攻撃が行われたということでもある。これは、満州事変が過剰な本土防衛意識からくる陸軍の暴走なら、真珠湾攻撃はおなじ考えでの海軍の暴走だったとも表現できる。実際には真珠湾攻撃の4か月後に米空母による日本空襲が早やおこなわれているのであり、最終的に日本はアメリカ軍の空襲で焼け野原になったのだから、これはあながち荒唐無稽な恐怖とはいえないものであった。特に山本五十六はこのことを何度か口にしており、のちの日本初空襲のショックで、あの危険なミッドウェー作戦が急遽敢行されることとなったのである。日本人は長い鎖国や、島国で独立をずっと保ってきたこともあって、朝鮮半島、満州獲得にみられるよう、本土を直接攻められることへの恐怖心、警戒心が(特に支配階級は)他国よりも人一倍強い。これも否定できまい。

以上、真珠湾作戦は、「初戦の不意打ちは日本ができる」「南進中にアメリカに直接本土を襲われる恐怖の払拭」と、やってしまいたい衝動の誘惑にも満ちていたものであった。

しかし上記のリスク要素とを天秤にかけると、リスクの方が明らかに大きい。だから真珠湾攻撃は賭けだというのである。もちろん戦争の作戦は多かれ少なかれ賭けであろう。しかし真珠湾攻撃はいきなりオール・オア・ナッシングの賭けすぎる。これはむしろ賭けというよりヤケの領域に入るといっても過言でないものであった。今一度言うが、奇襲としては成功したからそのように言われてないだけである。

ではヤケになった理由はどこにあるか。それは、アメリカと戦争をやるにあたって、日本は戦争計画を立てることができなかったからだ。そしてなぜ戦争計画を作れなかったかといえば、アメリカと戦って勝てるわけがないなんて最初から分かっていたからである。まともな頭脳と知識を持っている者が冷静に考えればどうやったって日本に勝ち目はなかった。彼の先端を行く科学力、10倍の工業力、豊富な資源、さらには原住民駆逐、戦争、奴隷制度で広げてきたその闘争的な領土獲得の歴史、そして何より日本からは遠くかつ広すぎて手も足も出せない彼の本土。どう考えても無謀な相手である。これでは全体の戦争計画など立てられるはずもない。

そんな敵と戦わざるを得ないところに海軍は追い詰められてしまったのだった。海軍はずっと仮想敵国をアメリカとしてきたので、陸軍以上に(陸軍の仮想敵国はソ連)アメリカと戦っても勝てないと分かっていた。だから海軍は対米戦には反対してきたのだが、アメリカが石油輸出を再開してほしければ大陸から兵を引けと言ってきたとき、「ここで引いたら日本は外国に舐められる国になる。三流国になる」と陸軍が主張したために、海軍も「対米戦争反対」とはもはや言えなくなってしまったのである。もっとも日本の官僚(軍官僚含む)の気質からすると、海軍の対米戦反対は陸軍への反発であり、日本を守るためというのは口実で、実際は海軍を守るためだったという可能性が高いが。

ともあれ、そんな勝ちの見込みのない戦争をやるとしたら、全面戦争でない曖昧な戦争にするか、ただ相手をひたすらやっつけるそれだけに専心するかの両極端に振り切れる可能性があった。前者は、真珠湾攻撃をやらずに、アジアでの局地戦だけに限定するような戦いの進め方をする道だ。しかしアメリカへの先制攻撃はこちらができるということと、相手があまりに恐ろしすぎたのでかえって攻勢一辺倒に出る方がもはや気分的に楽と言うこと、加えて陸軍への対抗心とで、海軍は寝ている巨人の脚をハンマーで折りに行く道を選んでしまったのである。真珠湾攻撃が純粋に海軍だけの作戦であったことを鑑みると、この作戦において海軍の陸軍への対抗意識という面は案外と大きいのかもしれない。

なお、山本五十六は真珠湾攻撃の1年前に及川海軍大臣への手紙で「開戦劈頭の真珠湾攻撃によってアメリカの士気を救えないほどに挫くのだ」という意味のことを書いていて、これゆえに日本は(少なくとも山本は)、初戦速攻、短期決戦でアメリカの戦争意欲を挫き、早期講和に持ち込むつもりであったなどと言われることが多いが、国としてそんな方針は存在しておらず、陸海軍とも長期戦になると見込んでいたのが事実である。そもそも駐米武官の経験が長い山本が、この程度でアメリカが日本に屈するなどと信じていたわけがない。この手紙のこのくだりを日本全体の方針だったとみるのは後世の人間の恣意である。正直、早期講和狙いは当時としてもほとんど児戯的空想のレベルで、考察材料の俎上にもあげることができない。もう引けない。ヤケであるところの真珠湾攻撃、ひたすら進撃あるのみという姿勢にあとからつけた戦略的粉飾にすぎない。

そう、当時「ここ」で引いたら陸軍も海軍も、その存在意義をなくしかねないのであった。あそこで引いていたらマスコミも国民も黙っていなかっただろう。なぜなら1931年の満州事変以来、陸軍パンフレット(1934年)はじめ、軍国主義の啓蒙はあまねくなされていたし、日中戦争開始の翌1938年には、すでにして国家総動員法が公布され、国民は戦争の為に生活を犠牲にすることを強いられていたからだ。日中戦争開始の1937年に出版された子供向けの人気漫画「のらくろ」の単行本『のらくろ総攻撃』(日中戦争をリアルタイムで引き写した3部作の第1作目)の序では、「諸君もやがて、帝国の軍人として大働きをなされるときが参ります。その時こそ立派な働きをして、皇国の為に忠義を尽くさねばなりません。どうぞ、この本をよく見ておいて、今からその心がけでいて下さい」と書かれ、翌年の続編『のらくろ決死隊長』でも、「戦争をするには莫大な金が要るので、銃後のみなさんも倹約するよう心掛けなくてはなりません」などと書かれているのである。子供たちに対してここまでの覚悟を強いるなら大人に対してはもう推して知るべし。(のらくろ自体、満州事変の年に始まり真珠湾攻撃直前に終わっているところからも分かるように、軍国主義の拡大に便乗した作品であった)そこまで精神、物質ともどもわれわれ国民に差し出させた行為を中途でやめるだって? むしろ対米戦争直前となると、軍部が一番怖れていたものはアメリカではなく、国民になっていたのではないか? (現在、当時の対米戦反対の姿勢をもって海軍を賞賛している人に限って、当時生きていたら海軍の弱腰を非難していただろう。日本の優れたところ、優越点を見たいという点では同じだからだ)

では引くに引けない「ここ」まで来てしまった理由は何か?

日本は資源や活用地に乏しく、また欧州からは遠すぎるために植民地になることをまぬがれ、また島国でまとまりやすこともあってアジアで真っ先に近代化をなしとげたために、アジアでは一番強力な軍隊を持っていた。こんなものを持ったら周りの国はまだ前近代にとどまっているのだから、欧米列強と肩を並べたいとか、大国ロシアに対する緩衝地域を手に入れたいとか、ドイツ軍の快進撃のように乗じれる世界の変化が現われたりするなどちょっとしたきっかけさえあれば、それを口実に侵略行為に出もしようというものだ。

また当時は急速に科学、工業力が発展した時代でもあった上に、昭和初期は人口が増えだしたときでもあった。つまりは若者人口が多く、若者の荒ぶる気持ちが絶対量的に多かった。そして軍隊というものは基本的に若い力をその中核としているものだ。その若い力を抑えるのが難しいのは五・一五事件や二・二六事件ですでに実証済みであった。実際、対米戦争の実質的原動力となったのは軍の中堅幹部であり、陸海軍の長とも常に彼らの激しい突き上げを食らっていた。中佐時に満州事変を起こした石原莞爾が少将時に日中戦争の拡大を制止しようとしたところ、前線の若手から「われわれは閣下がかつてやったことと同じことをやってるのですが」と万座で皮肉られ、返す言葉もなかったというのも有名な話だ。日清戦争に始まる日本の近代侵略戦争の50年は、結局とったところを守るため、またその横をとりと陣取り合戦の無限ループ、および「手柄=領土拡大」という内部組織での出世の方程式を確立する蓋然性があったもので、このようなマッチポンプ構造ができあがってしまっては、そのうち大国の脅威に対する緩衝地帯が欲しいとかの具体性も離れて、ひたすら戦争欲、領土拡大欲だけが拡大していくのもさもありなん、「戦果を挙げることだけが純目標化される」という状態に陥るのもむべなるかなというものだろう。泥沼化した日中戦争にしても、対米戦にしても、長期的な戦争計画がなかったことはその証左である。そして、その終わりなき陣取り合戦は、結局何を大義名分にあげようと、またそんなつもりはなかったと自己申告しようと、地域制覇の野望、さらに敷衍して世界制覇の野望と言われてもしょうがないものなのである。実際に当時、外国は日本をそういうイメージで見ていたのだ。相手がいる国際社会では、一方的に「そんなつもりじゃないよ」と言っても通らない。そしてもう一度言うが、これらは国民をあおり、国民の生活を犠牲にした上でやってることだから、いよいよやめられなくなる。

長く海軍は、陸軍だけに利するドイツとの同盟には反対の意を表し続けてきたが、1941年のような状況下となって、ここで対米戦を了承しないなら、海軍は臆病者呼ばわりされるだけでなく、莫大な予算を消費する存在意義そのものを問われることになりかねなかった。のみならず1931年の満州事変から10年、暴れまくっているのは陸軍ばかりで、海軍はといえば日本海海戦以来36年も海戦をしておらず(当時、連合艦隊内において日本海海戦従軍者は山本五十六だけであった)、若い中堅幹部には陸軍への対抗意識も含めて欲求不満も溜まっていたと推測できる。さらにもしここでソ連をドイツと挟撃するための陸軍北進などが始まれば、すべての主導権も予算も陸軍に奪われることになるのは必至であった。海軍は考える。アメリカはまだ戦争準備ができていない。こちらは世界最大の大和型戦艦の就役も間近。大型空母も新しく2隻できて空母の数はアメリカより上になった。中国戦線で無敵の零戦もある。今ソ連侵攻で快進撃を続けているドイツが欧州の覇者になれば残るはアメリカだけだ――。海軍も一気に対米開戦にかたむく。そして陸軍も北進をあきらめ、日中戦争の終了とリンクできる南進のほうを選択し、こうして日本は対米戦への道をあゆみだしたのだった。むしろ開戦直前から緒戦にかけては、陸軍のほうがアメリカに対して防衛的姿勢という考えで、海軍のほうが積極的攻勢を主張するようになっていたほどである。海軍が真珠湾攻撃をやると聞いたときの陸軍は相当とまどったのではないか。少なくともミッドウェー作戦にガダルカナル作戦など、そののちの海軍の積極攻勢に陸軍が反対することが多かったのは確かだ。

しかし海軍にとっても、アメリカがその科学力と大工業力をフル回転させて反撃に出てきてた時のことを思う恐ろしさに変わりはなかった。ならばかえってその恐怖心を拭おうとして、狂気的なイケイケ攻撃モードになっても不思議はないし、せめて今なら可能である緒戦の大勝、それだけでもものにしておきたいと目先のことだけ考えてしまうのも無理はなかった。どちらにせよ、もはや思考停止の自暴自棄。突撃あるのみだったのだ。つまりヤケ――これが真珠湾攻撃という危険な作戦を実行した最大の理由だと私は考える。

この無茶な自爆的攻撃性を象徴する行為は、のちに明確な形をとって現出もした。特攻である。そもそも対米戦争、真珠湾攻撃自体が特攻のようなものであった。最初だけ相手の不意をつくことができて通用したなど、対米戦争と特攻とは相似形を描いている。

そしてやると決まれば、あとはこの不意打ちを成功させるために、汚かろうがあらゆる手を打つことあるのみであった。絶対条件なのは、相手をその瞬間まで油断させておくことだ。これはこの不意打ち作戦を成功させるのに不可欠、1セットのものである。だから宣戦布告――というより実質上の宣戦布告に該当すると日米ともに認めている「もう話し合う余地はなくなったように思います」という交渉決裂宣言も攻撃開始の30分前に米政府に手交することにした。しかしこれは結果的に攻撃開始後になった。ちまたでは、これはワシントンの駐米大使館員の怠慢が原因だということにされているが、以上の流れからすれば、日本側の誰かの工作であろう。参謀本部の策略とも言われているものの、海軍の作戦なのだから軍令部の工作ではないかと思えるが、ともあれ、大使館の怠慢のせいならば、このときの大使館責任者は切腹もののはずなのに、のち、出世していることからも、わざと遅らせたのを疑うなというのは無理である。すでに日本艦隊は10日以上もかけてこっそりハワイに近づいていたのだし、交渉決裂宣言が攻撃開始の30分前に手渡されていたとしても、アメリカが「卑怯なだまし討ち」という名目につけこむことができたのには変わりはなく、だからこそ交渉決裂宣言は攻撃開始前だろうが後だろうが大した違いはないわけで、日本側からすればより奇襲が確実となる後者を選んだということだろう。通告が間に合っていたら卑怯なジャップという汚名を蒙らずに済んだのになどというのはいまだ意図的に流されているデマにすぎない。大使館員の怠慢のせいというデマに多くの日本人が安住しているだけである。のみならずこのデマは、真珠湾攻撃がアメリカを「本当に」激怒させたという事実からの逃避にも使われている。この自己欺瞞はドイツの戦後処理、意識改変に比べ、日本のそれが世界で評価されない理由にもなっている。これには日本人が島国で、自閉的、独善的のままでいられるところも大きく作用していよう。

もっともアメリカはアメリカで、真珠湾攻撃の17日前の11月21日に日本が提示してきた譲歩案(乙案と呼ばれるもの)、それをアメリカが12月1日0時にまで飲まなければ日本が戦争を決定することを暗号解読で知っていた。しかも12月初旬にどこかに奇襲をかけてくるだろうというところまで予測できていた。つまりアメリカは奇襲を受けることは承知だったのである。これをそのままにしていたのは言うまでもなく、日本が先に手を出したという大義名分が民主国であるアメリカには必要だったからだ。アメリカでは先に手を出した方が悪いと倫理上なっているのは映画やスポーツのルールからも分かる。しかしまさか真珠湾に来るとは思わなかった。真珠湾への空襲の可能性を言う軍人はアメリカにもいたのだが、日本の第一の狙いは南方なのだし、アメリカから見ても真珠湾攻撃は無謀だったので、奇襲は南方のどこかだと思いこんでしまっていたのだ。

しかしそれゆえにアメリカは真珠湾攻撃に本当に激怒もしたのである。大損害そのものや、日本が見せかけの交渉をしてあざむいたことへの怒りも当然あった。が、それ以上にあったのは、本気を出せばこっちのほうが強い、頭もこっちの方が良いと思っていた日本に考えていた上を行かれてしまった自らのマヌケさがそこにあらわになったことへの怒りと屈辱であった。戦争後半におけるアメリカの日本に対する容赦のなさは、すべてここに起因している。

なおアメリカが真珠湾奇襲を事前に察知していながらわざとやらせたということはほとんど考えられない。知っていたのなら、直前で日本艦隊を発見したことにして、真珠湾在泊の主力艦は外洋に疎開、航空部隊には迎撃態勢をとればいい話で、それで被害は最小限に食い止められるし、日本が先に手を出したという事実も十分とれるからだ。もし知っていてわざと放置していたことがバレたらF・D・ローズヴェルトは史上最低の大統領の烙印を米国民に押されることになっただろう。狡猾な政治家ならなおさらそんなことはしない。仮に知っていたのだとしても、もっと小規模な攻撃だとたかをくくっていたはずである。ここらは、日本が開戦すること、かつ奇襲の可能性があることまではアメリカ側にも分かっていたため、アメリカ国内でもいろいろ彼らなりのしがらみがあって突っ込まれることになっているだけである。日本で、ルーズベルト陰謀論を言う人はアメリカのほうを悪者に仕立てたいがためにそれに便乗しているにすぎない。

ちなみに11月27日(日本時間)にハル国務長官が日本の譲歩案にノーと返事をして、これで日米とも「戦争だな」と腹をくくることになったわけだが、このときハルがアメリカの要求はこんな感じと渡したのが有名なハルノートである。お分かりだろうがこの状況、日本の譲歩案への「ノー」がすべてなのであって、ハルノートの中身はどうでもいいものなのである。ただ「ノー」の返事だけだと暗号解読できてることが日本にバレてしまうから、ハルも何かこちらの案を提示する必要があっただけだ。だからハルノートの要求は厳しいながらも期日、範囲が不明確な適当なものなのであり(元のアメリカの一方的要求であるところの原則論に戻っている)、また公式文書ではない私的案の覚書にすぎないもので間に合わされたのだ。何が言いたいかというと「日本はハルノートという最後通牒で追いつめられた」との話が人口に膾炙しているが、これまた日本の真珠湾攻撃の責任を薄めんとして流布されているものにすぎないということである。そもそも上記のことからもわかるように、むしろ最後通牒を渡したのは日本のほうなのである。

なお、私の高校生時代の日本史の教科書、図表とも、ハルノートが手交されたのは11月26日と日付まで書いてある。真珠湾攻撃の日なら分かるが、その他の事件はほぼ月までしか書いていないのに、ハルノート手交だけ日まで、それもなぜかこれだけ米時間で書いてあるのである。(下図)


これはハルノートが手交されたから日本艦隊は出撃したのだというふうにとってもらいたいがためであろう。実際には日本の奇襲艦隊の出撃は日本時間の11月26日であり、ハルノート手交の前である。

そう、アメリカが返事をする前に奇襲艦隊を出撃させていることも日本の品格を損ねたと言えるだろう。交渉が妥結すれば艦隊は引き返すことになっていたなど言ったところでほとんど空文、一筆入れただけにすぎなかった。すでにこの時点で、ぎりぎりまで避戦のために尽力するという積極的避戦の考えはもはや存在していない。日中戦争における中国への支援の是非については日米まったく譲る気がなかった。これではあとあるのは戦争への秒読みだけである。外務省や大使館はそういうつもりではなかったかもしれないが、もう軍部が避戦のための材料なんて出してくれないのだから、外務省としては交渉だけ続けるということ以外やりようもない。

このような卑怯なことをやったのには、自閉的ゆえに外国と関係を持つのが下手で、身内の人間だけに気を使い、外の者には冷たい態度をとっても平気であるのみならず、ややもすると外国人は皆敵だとなりかねない日本人の特性も関与したと言えるだろう(私は何度これを書いているのだろう?)。日米の文化が違っていただけ、勝った方の価値観が現在広まっているのだというのは子供じみた言い訳でしかない。一部の日本人はこのレトリックが大好きで自分の言い分を通そうとするのに重宝なさっているようだが。

しかし真珠湾攻撃は賭けだと言ったが、それはこの作戦自体が賭けということであって、対米戦全体における賭けではないことには今一度注意をうながしておきたい。すでに申し上げたように真珠湾攻撃はこうでもしないと大国アメリカには勝てないという見地で行われたものではない。そもそも「賭けに出る」というのは、考え抜いたのちに選ぶ行為だ。対米戦は賭け自体、成立するレベルのものではなかった。だから考えたのち「賭けに出る」という決断に至ること自体がありえない。賭けならまだ戦争計画くらいはできていただろう。実際、当時、日本人の未来図にあったのは、ドイツがソ連と英国を倒して欧州の覇者となるから残るはアメリカだけだという希望的観測「くらい」であった。もっとも、島国ゆえのひとりよがりのためか、ドイツの尻馬に乗ったという自覚すら日本には乏しかったようで、ドイツに頼らなくともやれるという意見が大勢を占めていたようである。しかし、結局のところ、ふたつの世界大戦も一文でいえば、「すでに支配構図が決まっていた世界秩序に、遅れてきた東西ふたつの帝国が武力で挑戦したものの、資源と土地をたっぷり持つふたつの大国につぶされた」と表現できるものである。ふたつの遅れてきた帝国が日本とドイツであり、資源たっぷりのふたつの大国がアメリカとソ連(ロシア)だ。そしてはっきり言えばふたつの大戦とも主役はドイツだった。日本は第1次世界大戦はドイツの敵だったが、第2次世界大戦というドイツのリベンジ戦では、ドイツの尻馬、緒戦の勢いに便乗したというのが事実なのである。

ともあれ、日本はアメリカ憎しの感情と、メンツの維持と、ヤケで戦争を起こしたから、戦いがはじまると、総力をもって「戦争すること」それだけしかそこにはなかった。それはあたかも、永遠に亀に追いつけないアキレスというあのゼノンのパラドックスのような、今日も、明日も、明後日も敵を撃破すればその先にあるのは最終的勝利だけではないかというような考えであった。だから威勢だけはやたらいい作戦やら、いい加減な締まりのない作戦を次々と展開した。

このさいだからついでに考察しておくと、この状況のまずかったのは、日本に全体の舵取り役たる政治的トップリーダーがいなかったことである。首相は軍部に暗殺され続け、すでにその地位は有名無実になっていた(今だってそんな気がするが)。明治以来日本の実質的リーダーだった元老が前年1940年に最後の西園寺公望が死んで滅んでいたのも大きかった。老いたヒンデンブルク大統領が死んでヒトラーの独裁が本格的に始まったドイツにも似ている。もっとも明治維新を果たした元老たちは彼ら自身による支配体制しか考えていなかったので、彼らが死滅したあと、軍と言う統帥権の独立した「暴力」が台頭し、日本の舵取り機能が空中分解するのは起こるべくして起こったことでもあった。

ただ、別に軍の統帥権が内閣にあろうが、また天皇がいなかろうが、やはり軍部は台頭していただろうと私は思う。孤立自閉至上主義、かつ武家支配の長かったこの国が世界の舞台に出たとあれば、世界をすべて自分の特殊性に染め上げる、すなわち世界制覇、それをもっとも手っ取り早い手段である暴力で(しかもアジアで唯一近代的軍隊を持っていたのだから)一度は目指そうとする、そうしないはずがなかったと思われるからである。私個人はこれがアメリカと戦うという無謀なことをやることになった1番根本の理由だと考える。

当時、陸軍がトップリーダーだったのだとは言えないこともない。しかし軍隊というのは「戦闘」が本分なわけだから、軍部がトップリーダーになるということは、もはや暴力行使の一元しか意味していない。それは何が一番国、国民にとってよいのか天秤にかける政治なるものの行われない状況である。だから陸軍は本当の意味でのトップリーダー、つまり政治的トップリーダー足り得ない。

軍部支配になったと言っても、陸軍主導の一枚岩ではなかったのもまずかった。人間が陸の動物であるかぎり軍隊というのはどこの国でも陸軍が主導権を持つのが普通である(英国でさえ基本はそうである)。ゆえに、どこの国でも陸軍と海軍は仲が悪いものだが、対等のライバルというよりは、海軍が陸軍に対抗意識を燃やしているという構図なのが通常である。しかし日本は島国であるし、日本特有の強いセクショナリズムもあって海軍の立場、独立性が比較的強かった。山本五十六は海軍次官時代、ドイツと手を結ぶことに反対し続けたため、たびたび右翼人物の脅迫訪問を受け、右翼の暗殺候補者リストにもその名が載せらていたというが、これはおそらく強硬派のブラフ範囲のことであって、本当に海軍の現役将官を陸軍、あるいは右翼が殺したりしたら日本は対外戦争でなく内戦になっていただろう。もっとも内戦以上に、陸海軍間での将官暗殺などが日本でありえるわけがなかったというほうが正確であろうが。そもそも三国同盟を結ぶかどうかの話がのっぴきならぬほどに沸騰してきたのは1939年9月ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまったときからである。このときもう山本は連合艦隊司令長官になっていて東京にはいなかったのだ。三国同盟が結ばれたのはその1年後の1940年9月であった。映画『トラ!トラ!トラ!』でも冒頭、連合艦隊司令長官交代の場で前任者が山本五十六に「よく殺されなかったな」というシーンがあるが、あの時点で海軍将官を殺す殺さないというのは違和感がある。逆に言えば、これを冒頭シーンにもってきたこの映画は、山本五十六を主人公として描く=真珠湾攻撃の主犯は山本であるとするためであったことを主眼としていたことの逆証左になるだろう。

トップリーダー不在の状況が続いてしまったのには、軍隊の統帥権が天皇直結で独立しているゆえのなんとなく天皇がトップで形になっているという錯覚(というか責任逃れ構造の温存)も大きかった。天皇は統治技術など心得ていないのでトップリーダーとは言えない。天皇は軍部も含めた国民を映す鏡のようなものでしかなかった。ゆえに戦争責任にしても昭和天皇に被せるのは酷は酷なのだ。ただ今になって昭和天皇を反戦主義者、慈悲深き平和主義者だったともちあげるのはさすがにひいきの引き倒しにすぎよう。天皇も国民も緒戦の快進撃に喜んだのだから。そう、この緒戦連勝の歓喜、「日本軍最強! 日本万歳!」の快哉に酔ったからこそ国民も最後行きつくところまで行ってしまったのである。そういう意味でも真珠湾攻撃は罪であった。

トップリーダーが不在で、権力ある者らが横並びになると、全体がとる行動の責任の所在は不明確にならざるを得ない。トップ不在の横並び性は、戦争指向の若手幹部の突き上げを通しやすくしてしまったほか、お偉方個々人が感じる責任や恐怖を分散させ弱まらせる働きもした。それでかえって危険な行動を誰も止められないという事態が生じたのだ。今もよく言われている日本組織の無責任体質である。

少し話が真珠湾攻撃を越えて対米戦争自体にまで及んでしまったが、以上のように、トップリーダー不在の政情のなかで、陸軍、海軍、外務省は暗闘を繰り返しながらも、軍部中堅幹部の血気、対米開戦という外に問題解決を任せていく流れ、大国アメリカに対するせめてもの開戦奇襲勝利への希求、昭和天皇の作戦承認など、真珠湾攻撃実行のコンセンサスは確立していたのである。

ところが何度も申し上げた通り、今日、真珠湾攻撃は、まるで山本五十六ひとりが主体みたいに見なされている。

これはなぜであろうか?


3.真珠湾攻撃は山本五十六のせいにせよ!

もはや答えは簡明である。山本五十六は真珠湾攻撃の1年4か月後に南方で戦死したが、多くの真珠湾攻撃の決定指導者、つまり、山本五十六の腹心であった黒島亀人先任参謀、若手の源田実航空参謀、時がたてば戦機はうしなわれるといった永野修身軍令部総長、そして昭和天皇、みな戦後まで生き延びたからである。だから戦史の専門書でなくとも、こと真珠湾攻撃に話がおよぶと多くの本が、「真珠湾攻撃を断行した山本五十六」と指名手配犯のように、その顔写真の掲載にスペースをさくのである。実際、東京裁判では海軍関係者、つまり真珠湾攻撃関係者からは死刑者が出ていない。対米戦を始めたのは海軍なのに! 

特にこの件のキーマンは軍令部総長の永野修身に思える。これは永野自身がそのようなことを企んだという意味ではない。永野は東京軍事裁判中に獄死している。そうではなくて永野、いや、トップを守る必要性がその後もあったのではないかという意味だ。本来なら、よし山本の「退職脅迫」が本当だったとしても、真珠湾攻撃を行った責任を負うのは作戦決定権を持つ軍令部総長のはずだ。なのにそれが山本五十六のせいにされているなら、そのことで一番助かるのは永野、海軍のトップ人物なわけである。

永野修身は、兵学校を次席で卒業、史上唯一人、軍令部総長、海軍大臣、連合艦隊司令長官の海軍三大役職のすべてについた人物で、いわば海軍官僚の中の海軍官僚、海軍官僚の出世頭であった。このような人物こそ官僚世界から(たとえ軍のなくなった戦後、かつ永野の死後でも)もっとも組織的に守られるだろうことは、日本の政治システムについて関心のある方ならどなたも首肯していただけるのではないか。つまり、その他多くの真珠湾攻撃にかかわった海軍軍官僚も、自らの責任逃れを兼ねて、永野無罪、山本主犯説に暗黙の裡に同調、協力した可能性が高いということである。対米開戦直前の永野の言動はまさにミスター軍官僚とでもいうべき、所属組織の利益優先、無責任、玉虫色のものであった。永野は東京裁判で「真珠湾攻撃について私は、反対とする軍令部の意見に賛成だったのですが」などと言っているが、軍令部の長があなたではないか。無責任もここまで来ると、叙勲叙位ものであろう。開戦時61歳だったために戦後「戦うには私は歳をとり過ぎていた」と語ったとも言われるが、同じ地位にあったアメリカのE・J・キング大将は永野より2歳年長であった。

アメリカを本気で激怒させた真珠湾攻撃。そしてもしかしたらのちの本土大空襲、原爆投下にまでつながっているかもしれない真珠湾攻撃。それを行った責任はとてつもなく大きい。だから、その責任を一方的に押しつけては死んだ山本が浮かばれないということで「飛行機の時代となることを見抜いていた慧眼の持ち主」とか「真珠湾奇襲というたぐいまれな作戦を考案、実行した優秀な戦術家」とか「日本を守ろうとして対米戦に最後まで反対した愛国の軍人」とか(勢いあまって反戦主義者と言われるときすらある)山本の英雄的側面が強調されることにもなったのではないか。これを私は、山本五十六神話、あるいは山本五十六英雄史観と名づける。

現在の日本の上層部にとっても山本英雄史観は利用価値が高い。山本英雄史観は、上述の映画『トラ!トラ!トラ!』のように日本人の中にあるアメリカに負けた無念さを昇華し、また真珠湾攻撃の「腹黒さ」をも薄め、日本人に自尊心の満足をもたらす役割も果たしてくれるからである。現在、アメリカが朝鮮半島の真ん中に東西の線を引いてくれているおかげで日本は平和なのであり、平和だからこそ日本人は大人しく、お上にとっても御しやすく安心していられる存在になっているのであるから、国民のアメリカへの憎しみの昇華は常時行われねばならないのである。また一方で軍人ヒーローを作っておくことは、軍備再強化をスムーズに進ませ得るベースともなる。

またアメリカにとっても山本五十六英雄史観は都合がよい。アメリカで真珠湾攻撃と言えば、卑怯なだまし討ち、「リメンバー・パールハーバー」だが、軍関係者は結構「純戦術的に」として真珠湾奇襲を評価しているという話もたまに聞く。しかしこれは映画『トラ!トラ!トラ!』同様の彼らの日本人への「おだて」と「目そらし」ではないか。あの戦争において日本を褒めるところ、容赦するところも残しておいたほうがよいというわけだ。彼らは日本人が心のどこかでいまだアメリカを憎んでいると知っているからである。そりゃ知っている。原爆を落としたのだから。

以上、彼我と古今の日本人の利益が一致しているところで、山本に真珠湾攻撃のすべての責任が押しつけられ、諸説、証言もその方向でおおくが捏造されているのが事実ではないのか。確かな証拠となる資料は、山本が1943年に戦死した時、海軍が山本の自邸にまで押しかけて回収、処分しているため(これは軍の機密処理の意味もあったが)、かなり自由な絵を描くことが可能だった。真珠湾攻撃の最初の発案や、それの検討命令ですら山本五十六ではなかった可能性もある。真珠湾攻撃を実際に検討したのは連合艦隊の大西瀧次郎航空艦隊参謀長(特攻の生みの親とも言われており終戦で自決)や源田実航空参謀らしいが、軍令部が現場部隊に作戦の検討を命令したとしても連合艦隊の長である山本五十六を経由しての命令になるので、山本のせいにすることはそれほど困難な話ではない。少なくともこのような検討指示は海軍の頭脳である軍令部の命令であるほうが正統なのは確かだ。もしかしたら有名な山本の博打好きですら、真珠湾攻撃と言う博打を山本のせいにするための捏造、あるいは誇張なのではないのだろうか。軍人は顕彰的な小説ネタになりやすいので、戦国武将や幕末の志士と同じく、戦後、山本を題材とした小説の内容が事実ととらえられて一人歩きしているところもあろう。映画『トラ!トラ!トラ!』もその役目を果たしている。

山本について多くの捏造があるなら、山本の言動には矛盾も出てこよう。事実、多くの研究家が山本の矛盾に首をかしげ、「二面性」などの安易な言葉でお茶を濁し続けている。山本は愚将、凡将と言われることも多く、映画で英雄的に扱われている割に全体的評価がいまだ確定していない感があるが(少なくとも国民の英雄感はない)、それも同じ理由によるものではないか。

言動の矛盾でいえば、たとえば山本は「アメリカには絶対勝てぬ。だからアメリカと戦争するな」と日本を守る的なことを言いながら、なぜ真珠湾攻撃なんてアメリカを怒らせてのちのち日本がコテンパンに仕返しされるようなことをしたのかということがよく言われる。山本英雄史観の信奉者はこの溝を山本の「苦悩」やら、ただただ山本は心の中でこの作戦に一縷の望みを託し「早期講和」のために政府が動くことを期待していたなどという文学的想像で埋めようとするのが常だが、山本がそのような実際的動きをした形跡などない。そもそもこちらが押している状態で早期講和を企図できるほどの自制心と冷静さがあれば最初から戦争などしないであろう。これらの言動の矛盾は、山本がただ海軍組織の官僚――典型的日本の官僚であったということで説明がつくのだ。彼は日本でなく、おのれが属する組織の日本海軍をつぶしたくなかったのであり、ドイツとの連携に反対し続けたのもそれが陸軍にのみ有利になるものであったからだ。真珠湾攻撃が海軍単独の作戦であったことも見落としてはならない。(もちろん陸軍上層部には知らされていたが)

山本の評価が確定しない理由はといえば、真珠湾の成功をよし山本の手柄としても、ミッドウェーの惨敗もまた山本の責任に帰せざるをえないというジレンマがあるためである。真珠湾攻撃の4か月後、日本は真珠湾の報復といえる米空母による本土空襲をうけた。またその直後、史上初の空母対決となった南洋の珊瑚海海戦では引きわけ、ついに連勝、および進撃もストップし、のみならずこの海戦で、はじめて菊の御紋のついた軍艦を沈められた(軍艦は天皇の持ち物なので菊の御紋がついている。ちなみに駆逐艦、潜水艦は軍艦あつかいでないので御紋はついていない)そのために米艦隊撃滅を計ってミッドウェイ作戦が行われたわけだが、すでに戦争は始まっているので、もはやおいしい不意打ちは成り立たず、ミッドウェイ作戦は真珠湾攻撃以上に危険な作戦とならざるをえなかった。ミッドウェー島攻撃中に敵空母が現われたら挟み撃ちの絶対不利になるのである。だから反対の声もあがっていたが、それも、真珠湾攻撃以来の緒戦連勝のおごりと、戦争計画がないゆえの前に前に出るだけという猪突猛進性と、早くに米艦隊をつぶさねばという気のはやりとの合成感情による、今度もうまくいくという希望的観測によって握りつぶされていた。そしてその思い上がりの根底にあったのは、やがて来るだろう米軍の大反攻、つまり負ける運命到来の恐怖だったのではなかったかと私には思われるのである。その恐怖から逃れんとして、目先の成功で舞い上がり状態という緊張の解消されたお花畑に逃げ込み、そこに閉じこもったのだ。これは本稿でも何度も指摘したことだが、日本は鎖国癖がぬぐえず、すぐに現実から目をそむけ、自閉してしまうのである。こうして2回目のバクチは華々しく失敗した。賭けはつづけているかぎりいずれ失敗するのが当然で、成功ばかりする賭けは賭けではなく実力だろう。そんな実力は日本海軍にはなかった。いわば真珠湾の強運はミッドウェーで清算されたわけである。ミッドウェイ作戦惨敗の理由もいろいろ言われているが、その一番はこんな危険な作戦を実行したことにある。「しない」という選択、これは当時から出ていた意見なのでけしてあと知恵ではない。真珠湾では空母の集中運用が功を奏したため、今でも機動部隊創設だけは日本の手柄だと評価する人が多いが、ミッドウェイではその集中運用が仇になり、まとめて空母は葬られた。つまりこのふたつの作戦は双子であり、成功したミッドウェイ作戦が真珠湾攻撃、失敗した真珠湾攻撃がミッドウェイ作戦なのだ。強引にことを進めたのを同一人物としているかぎり、どちらかだけをとる良いとこどりはできないのである。これでは航空機主戦主義の先見者山本五十六仕方の名に傷がつく。仕方がない。やっぱり真珠湾攻撃のおかげで南方進攻はスムーズに行ったのであり、ミッドウェーのほうは南雲のせいにしておこう。何? 南雲は真珠湾は成功させてるじゃないかって? それはいけない。南雲は真珠湾では、反復攻撃を行うことなくさっさと現場から逃走したということにしておこう。(上述したが反復攻撃の予定は最初からなかった)

その他山本には、真珠湾攻撃成功直後、意味もなく内地の艦隊を近海に町内一周させたり、初の空母同士の対決となった珊瑚海海戦のデータ、戦訓を無視してミッドウェイ作戦に臨むとか、無口で部下にはっきりした指示を出した形跡がないなど、とても名将とは言えない不可解な采配、態度も多い。緒戦の機動部隊指揮官南雲忠一は山本の戦略的意図を理解しなかったと書かれている本もたくさんあるが、山本のほうが明確な指示を出していないのである。「水から石油を作る事件」などは山本神話信奉者にしてみれば「もう言わないで」的なものであろう。どちらかというと軍政面で優れていたと言われながら、作戦行動である真珠湾で評価しているところも齟齬のひとつだ。

ミッドウェーの空母炎上の報を後方の戦艦大和上で次々と聞いても山本は「ほう、またやられたか」と言っただけで、まるでひとごとみたいに部下の参謀と趣味の将棋を指しつづけたという話も有名である。山本英雄史観信奉者にとって都合の悪いこの証言は、山本を尊敬していた彼の従兵長のものなので信用に足る。ちなみに私は小学生の時から太平洋戦争関係の本に親しんでいるが、どうも山本五十六の「すごさ」はいまいちピンとこなかった。一番の理由は真珠湾攻撃は不意打ちであって、別に優れた作戦と思えなかったからだ。むしろ空母から陸軍の双発機を発艦させて中国へ逃げるという一方通行攻撃をかけるドゥーリトルの日本初空襲のほうが唸ったものである。

とはいっても、私は別に山本五十六を批判しているのではないし、愚将だったと言いたいわけでもない。アメリカと戦ったら日本は焼け野原になるというところなどは当たったのだから評価してもいいのではないかと思う。そうではなくて、生き残った人たちによって真珠湾攻撃は山本が「主犯」ということにされているのではないかということを言いたいのだ。もしかしたら司令長官である山本を南方の最前線に向かわせたのも、山本を戦死させ、軍神とし、そして真珠湾攻撃の責任を押しつけるための策だったのではないかとさえ思うときがある。大体、戦争強硬派のほうが生き残り、穏健派、反対派のほうが危険な前線にやられて死んでいると思えるのだが、これは気のせいであろうか。今の日本企業の人事も同じようなもののようだが。

2021-09-22

日航123便はミサイルの近接爆発で垂直尾翼を失った

 1.123便の垂直尾翼を破壊したのは近接爆発したミサイルである

1985年8月12日に起こった痛ましき日航機123便の墜落については、公式見解である圧力隔壁の自壊ではなく、真の原因は、軍兵器の飛翔物体が空中衝突して垂直尾翼を破壊したのであり、その証拠を消すために最後、123便はミサイル攻撃で山間に墜落させられたのだという説が根強くある。これについてはたくさん本も出ているし、ネットでも多くの意見がみられるので、多くの人が周知であろう。

私もいくらか読ませてもらったが、公式見解はきわめて不可解である。下図がその公式見解の説明だ。異変が起こったのは羽田離陸12分後の高度7000mの高空。胴体尾部の圧力隔壁が自壊したことによって客室内(正確には与圧区画内)の空気が垂直尾翼の内側に吹き入り、その圧力によって垂直尾翼のほぼすべてが吹っ飛び、それによって123便は操縦不能となり墜落したというのである。


しかし妙なことに、高空での圧力隔壁の損壊があった場合に必ず起こる「客室内の急減圧」は、生存者の証言、およびボイスレコーダーによれば生じていないのだ。

高空飛行中に飛行機の外部ドア(これもいわば圧力隔壁)が開いて急減圧が客室にかかる事故は何度か起こっている。貨物室ドアが開いただけでも、上階の客室、操縦室まで、急減圧で暴風状態となり、物品は飛び、床がへこみ、鼓膜を壊されるほどの負圧がかかる。ましてや客室のドアがはずれたとなったら、シートベルトをしていない乗客は瞬時にそこから機外に放り出されてしまっている。

123便ではそのような急減圧は起こっていないのだから、垂直尾翼を内側から破壊するほどの大量の空気が客室内から瞬時に漏れたなどありえないと考えるのが自然、というか当然であろう。そもそも圧力隔壁が自壊したのなら、最後まで与圧空気は漏れっぱなしで客室の与圧自体が保てないし、温度も下がってしまうはずである。空は1000m上がるごとに5.6度ずつ気温が低くなるので、高空域は夏でも相当に寒い。しかし客室内が寒くなったという証言はない。つまり与圧システムは最後まで有効に働いていた。ということは、圧力隔壁の自壊などなかったのだ。当局は暴風、急減圧がなくても与圧空気漏れで垂直尾翼は破裂したのだ、あり得たことなのだと言い続けているようだが、専門用語と計算式をたくさん並べてわざと読めないようにしてるような説明書を出しているようでは、真の原因は知られたくないから隠していると勘繰られても仕方がないというものであろう。

では知られたくない真の原因とは何か? 垂直尾翼に爆弾が仕掛けられていたのでもない限り、原因は外から来たとしか考えられない。つまり別の飛行物体が、何か大きな力を123便の垂直尾翼に加えたのである。

しかし何か飛行物体が「偶然に」垂直尾翼に衝突したとは考えにくい。なぜならちょっと考えればわかることだが、大空なる3次元で高速飛行する物体同士が「偶然」接触するなど、非常に可能性が低いからだ。

悲しむべきことに、旅客機同士の空中衝突事故は、歴史上幾度か起こっている。しかしこれは空路、飛ぶ高度というのが大体定められているために、管制塔からの指示が混線すると、同じ高さに飛んでしまったりするのが原因であることが多い。つまり要因があるのである。ならば、何か飛行物体が123便にぶつかったというなら、「要因」のあるものでなくてはならない。つまり、ぶつかってしまうだけの理由がある、言い換えれば、両者の距離をゼロとする蓋然性があった飛行物体ということである。

ならば何より真っ先に思い浮かぶのはミサイルだ。なぜならミサイルには、目標誘導装置がついているからである。

ミサイルなんか命中したらその時点でどんな飛行機でも粉々だろ、と思われるかもしれないが、実際は簡単にそうならない。なぜなら高速の飛翔物体に、より高速の小さな飛翔物体を3次元で直撃させるのは、誘導システムをもってしても困難で、実際の対空ミサイルは、目標に近づいたら近接信管で爆発させて相手にダメージを与えるという方法をとっているものがほとんどだからだ。そうしないと直撃しなかったミサイルは全部標的を通り過ぎて無駄になってしまう。近接爆発させるほうがいいわけだ。しかし近接爆発することができたならこれで一応「命中」なので、「命中」イコール撃墜とも限らないわけである。

第二次大戦の後期までは、速射の弾数と砲身数による弾幕射撃ができる機関銃以外、飛行機を撃破するための高射砲は、発射後コンマ数秒、ある高さに達したところで砲弾を爆発させる時限信管を使ったものがほとんどで、飛行機を直撃して落とすものではなかった。そこで敵機に近づくと電波で感知して爆発させる近接信管(VT信管という名のほうが有名)がアメリカで発明された。湾岸戦争で有名になったパトリオットミサイルなども当初は、この近接爆発による破片弾頭攻撃の方式だったが、航空機に対してならともかく、ミサイルに対しては近接信管による破片弾頭攻撃では効果がなかったので、のち敵ミサイルに対しては直撃命中させるミサイルが開発されている。

123便の垂直尾翼を破壊した物、それ自体は、123便の尾翼うしろ近くで近接爆発したミサイルである可能性が高い。近接信管の作動か、すでに遅かったわけだが危険を察知したミサイル発射者の自爆指示かのどちらかの理由で爆発したのだろう。


ミサイルの近接爆発――これは、ボイスレコーダーや生存者の方の証言とも合致している。ボイスレコーダーによれば、ことのすべては、離陸12分後の相模湾上空高度7000m、約1秒ずれた2つの衝撃音から始まっている。2番目の音のほうは「メキメキ」あるいは「ベリベリ」といった何か大きなものがへしゃげるような音なので、これは垂直尾翼がもぎとられた音でほぼ間違いないと思われるが、肝心の最初の音――それは衝突音というより、もっとするどく、擬音で言えば「バヒューン」という感じで、爆発音のようなのである。

この衝撃音が発生したとき、機長のかたは「まずい。何か爆発したぞ」と叫んでいる。この機長のかたは元航空自衛隊のパイロットなので衝突音と爆発音の区別など反射的につくのではあるまいか。ほぼ最後尾に座っていた生存者のかた(この方は日航の非番の搭乗員さん、昔風に言えばスチュワーデスさん)も、「バン」ではなく、「パーン」という高めのするどい音、耳を押さえたくなるような、すごく響く音、テレビドラマで刑事が拳銃を撃つような音が、背後上方から聞こえたと証言している。実際、最初の音はそのような音に聞こえる(なおこの音が発生する前触れは何もなかったとのことである。これだけでも圧力隔壁自壊説が嘘であることが分かる)。

擬音表現には個人差があるが、「バン」でなく高めの「パーン」という鋭い音というのは資料性のある表現といえる。言うまでもなく拳銃も火薬を「爆発」させて発射するものだ。「大空のサムライ」などの著書で有名な零戦パイロット坂井三郎氏も、飛行中はエンジンとプロペラ音でほとんど何も聞こえないが、機関銃の射撃音だけは自機のものも敵機のものもはっきり聞こえると言っている。それだけ火薬の爆発音というのはよく響くのだ。この音は地上でも聞かれており、伊豆半島東岸の住民のかたが「ドーン」という爆発音のようなものを聞いたと証言している。

もし垂直尾翼が内側からの空気圧により破裂したのだったら、「バン(ボワン)」という金属板の振動音によるにぶい音になるのではないか。もっともそれ以前に、垂直尾翼は気密構造ではなく、外気と内部の空気圧が常に同じになるよう空気の抜ける構造になっているのだから、仮に内部与圧が一気にかかったところで、垂直尾翼が破裂するなんて思えない。せいぜい一角が破れ、そこから内部圧の空気は抜けて終わるだけではないか。

そもそも圧力隔壁から与圧空気が胴体尾部に漏れたところで一気に垂直尾翼に入るのかと言う話もある。ボーイング747の垂直尾翼は、胴体と一体構造ではなく(つまりお互いの内部は通通ではなく)、プラモデルのようにあとから取り付けているのである。日本乗員組合連絡会議による事故調査委員会への反論文書によれば、胴体側の垂直尾翼取り付け面は胴体の外板がそのまま張られており、そこには点検マンホールと操作用配管のため以外の孔はあいていない。(下写真は同サイトより抜粋させていただきました)


これでは与圧空気が一気に垂直尾翼内に入るとも思えないし、よし破裂させるほどの強い与圧空気が圧力隔壁から漏れたとしても、まず吹っ飛んでしまうのは胴体尾部突端の補助エンジンのはずで、そして補助エンジンがとれたなら(実際とれている)、もう胴体尾部はスケスケなわけだから、垂直尾翼内に与圧空気が入るわけがない。それを日本乗員組合連絡会議は言っているわけで、この反論のほうがもっともなのである。大きな孔があいているのは事故調査委員会の見解のほうこそと言うべきだろう。

しかし、ちまたの飛翔物体衝突説では、近接爆発のミサイルではなく、軍事演習用の無人標的機が垂直尾翼に衝突したのではないかという説が主流なようだ。しかし無人標的機はレーダーでその位置、動きを確認しながら、地上からリモートコントロールするのであり、飛んでいる飛行機に対してはわざとぶつけることすら至難であると思われる。よしぶつかったのだとしても、鋭いパーンという音にはならないだろう。垂直尾翼の真横から当たったなら(ほとんど考えられないが)多少音は鋭くなるかもしれないが、それでも、7000mも下の地上まで聞こえるような鋭い音になるなんて思えない。翼幅7㎝のジャンボジェット機の模型が高さ10mのところに飛んでいるところをイメージしてみていただきたい。この場合、高さ1㎝か2㎝そこらの垂直尾翼に1㎝程度の無人標的機がぶつかって(あるいは内部からの空気圧で垂直尾翼が破裂したとして)10m下にいる身長2.5㎜の人間に聞こえるであろうか? しかし癇癪玉がそこで破裂したなら聞こえるだろう。

さらに、ミサイルの近接爆発があったと思われる証拠が今一つある。それは『日航123便 墜落の新事実』(青山透子著、河出文庫)という本に書かれた、静岡県藤枝市で超低空飛行をしている123便を見た女性の証言で(日没の7分ほど前)、それによると、123便の胴体の後方左下部、荷物室扉に近い部分に、4,5メートルほどもある赤かオレンジ色の円筒形、あるいは楕円形に見えるものがべったりとくっついているように見えたというものである。最初は火事かと思ったとのことで、証言者のかたも正確にどのような状態になってるかまでの把握はできておられないのだが、胴体の腹側の話では、垂直尾翼への兵器衝突説を支持する者の捏造証言とは考えにくいし、ベッタリ赤い物が絆創膏のように張り付いていたように見えたというのだから作り話としては突拍子もなさすぎで、目撃証言自体は真実と見て差し支えないかと思う。

では、これは何であったかというと、ミサイルの爆風により、日航機の機体腹側のグレーの塗装が剥げて銀色のジュラルミン外板(上記の写真ではプライマーをかけているのか赤銅色に近いが)がむき出しになり、それが夕日に映えてオレンジ色に見えたということではなかろうか?


同証言によれば、最初、垂直尾翼がギザギザしていたのでそれが煙に見え、その火元が腹部の「赤い色」かと思ったということである。証言者の方は「夕日が映っているようでもなく」と述べているが、ここだけジュラルミン地肌がむきだしになって鏡のようになっているとは思わなかっただけではないか。一説では垂直尾翼を破壊した「何か」は、左側から当たったのだという。これがミサイルの至近爆発のしわざなら、胴体の「左」側のどこかに痕跡が残ることは当然ありえよう。もちろんこの地点では123便はほぼ真北に向かって飛行しているので、当然夕日は機体の左側を照らしている。同証言によれば123便は右斜めに傾いていたというので、なお胴体の腹を太陽に向けていた。すべて辻褄があう。

さらにこの証言によれば、123便をファントム機2機が追いかけていったという。このファントム機がまた謎なのだ。123便を2機の飛行機が追いかけていたというのは墜落地点の群馬県含めたくさんの証言があるのでまず事実だったと考えていいと思うが、この地点では異常事態発生のわずか11分後に目撃されているのだ。航空自衛隊基地からのスクランブル発進だったにしても早すぎるのである。ならばこれがミサイルを発射した張本人だったのではないか。この時刻、相模湾で護衛艦「まつゆき」が試験航海中だったために「まつゆき」からミサイルが発射された説も言われているが、それなら「まつゆき」に乗っていた人間はミサイルが発射されたことを全員が知っているだろうからその誰しもが「あのミサイルが日航機に当たったのではないか」と疑うであろう。そこまで良心にふたをする箝口令が徹底できてるとはちょっと信じがたい。どちらにせよ、この123便を追いかけるファントム機について、自衛隊が何も言及していないのは不可解である。自衛隊はスクランブル発進は123便墜落の後だと言っているのだ。

ともあれ、ミサイルの近接爆発が真の原因なら、軍が、なんで羽田近くの民間航路区域でこんな危険なことをしていたのかという疑問が残ろう。この場合、むしろこう考えた方が納得がいく。それは、軍隊の方が民間機を積極的に利用したというものだ。

自衛隊機と全日空機が空中衝突した71年の雫石衝突事故なども、自衛隊機が全日空機の航路上に乗ってしまったために追突した(された)もので、そうなった原因は、自衛隊機が民間機を勝手に演習に利用したためだと一部ではささやかれている。つまりこれが雫石事故における『両者の距離のゼロになった蓋然性』なわけだが、航空機に限らず、艦船などに対しても、照準ロックオンとか、軍が勝手に民間機、民間船を演習に利用するということはよくあるのだという指摘もよく耳にする。ならば、最初から123便を敵の大型爆撃機と仮定して利用した可能性もあろう。するとミサイルの誤発射だったのか、それとももっと早くに自爆させるつもりが、ということだったのか、それとも演習、実験だったので弾頭に炸薬はわずかしか入れられてなかったにもかかわらず(あるいは自爆する分量だけ)、思った以上の破壊を招いてしまったということなのか……。ここらはヒューマン・エラーとしていくらでもありうる、考えられることであろうからこの辺でやめておこう。

ただ、相模湾上空で123便の垂直尾翼を破壊したのが、至近位置で爆発(破裂)したミサイルだということだけは、ほぼ間違いないと思う。


2.自衛隊の不始末隠蔽説の理解しがたいこと

ちまたの『軍事飛行物体による垂直尾翼破壊説』では全体の経緯は次のように推測されているようだ。

123便に何か飛行物体をあててしまった自衛隊は、123便がどのような状態になったか確認するためにファントム機2機にスクランブルをかけて追わせた。そこで123便の垂直尾翼が消失していることを知る。そこには証拠である飛行物体の断片も付着していた。このことがばれたら大変なことになる。そこで123便を乗客乗員もろとも粉々にしてしまおうと企図し、123便が必死の操縦で目指していた横田米軍基地への着陸を妨害し、群馬県の山間部のレタス畑に不時着するよう誘導した。実はこの場所は、自衛隊の特殊部隊の訓練場に近いのであった。そしてその場所に来た時、別のスクランブル発進機が、空対空ミサイルを発射し123便を撃墜した。(これは赤外線誘導でエンジンに直撃が可能だったと思われる。またこの場合パイロットは123便を北朝鮮かソ連の大型爆撃機だということで撃墜命令を受けていた可能性がある)。123便の墜落位置は、偶然近くを飛行中だった米軍ヘリからの報告が米軍経由で日本政府にも入っていたはずだから最低でも墜落1時間後には分かっていたはずなのに、政府はその後、墜落場所を10時間も「特定できず」と報道したのみならず(もし本当だとしても10時間ってどれだけ無能なんだ?)、テレビのニュース速報にて「待機命令を無視して救助に行こうとした隊員を射殺」というデマニュースまで流して一般隊員にも足止めをかけ、その間に特殊部隊に飛行物体とミサイルの断片の回収と、生存者の毒ガスによる殺戮、および火炎放射器による証拠隠滅を行わせた。遺体は不思議なほど異常に焼けていたのだ。(もしそうなら多くの遺書もそのときに焼かれたであろう)。そして当初は男児含め7人と新聞でも発表された生存者は、何の説明もないまま、いつの間にか女性だけの4人に修正された……。

大体以上である。そこに自衛隊の特殊部隊の訓練地があるのかよく分からない話もあるが、墜落地点に近い妙義山のあたりが戦後、米軍の訓練場になるという話が出て地元民の反対運動があったことなど、私はある本で読んだことがある。

とにかく、確かに妙なのは生存者の数が変わったことだろう。男児含めた3人はどこに行ったのだろうか? 男の子は顔こそ出てないが救助されたところの写真まで新聞に出ていたのだ。私はこれに関する説明を何も聞いたことがない。

遺体の多くが異常なほど焼けていたというのも不思議な話だ。航空燃料が可燃物なのは当然のことだが、それほど遺体が焼けたということは燃料は十分に残っていたということであり、よし操縦不能になったのだとしても、もっと飛行は続けられていたはずだからである。

燃料に関してはもうひとつ不思議なことがある。747のような大型旅客機が国内線を飛ぶときは無駄に全体重量を増やして燃費が悪くならないように満タンにせず、主翼両翼内のタンクだけを使い、中央の胴体をまたぐセンタータンクは使わないようになっている。



これは、逆にセンタータンクにだけ燃料を入れると、胴体が重くなって揚力を生む主翼と胴体の結合部分に負担(剪断力)がかかってしまうためである。国際線で満タンにする場合もセンタータンクから使っていき、そのあと両翼のタンクを使う。つまり123便の墜落時に残っていた燃料は両翼内部にあったはずなのである。しかし墜落地点での延焼範囲はふしぎなことに、前部胴体の散らばったところ、つまり前部胴体に乗っていた人たちの遺体が散らばっているところが中心になっているのである。


ちなみに私も知っている人がひとりこの墜落でなくなっているが、やはり遺体は黒焦げで、ご家族が生前に故人の手形をとっていたためになんとか特定できたということであった。なお生存者は皆、後部胴体のところ(上図の左上)で発見されている。

また、現在youtubeなどで聞けるボイスレコーダーがカットされているものであることも、真相は公式見解とは異なるのではないかという疑いを強める材料となっている。乗員のプライバシーに差し障る部分はカットしているのだという話も聞いたことがあるが、垂直尾翼を失ってから墜落するまでの32分間、乗組員は何とかしようとただそれだけに必死だった。プライバシーにかかわるとしてカットしなければならないような会話が交わされていたなんてとても思えない。現在ボイスレコーダーの全録音の公開を求める運動が遺族の方たちによって行われているが、当局はボイスレコーダーを細工、でっちあげれる音声編集技術が確立するまで時間稼ぎをしているとも一部ではささやかれている。

あと、相模湾海底に眠る123便の垂直尾翼が、引き揚げ可能の深さにありながら引き揚げて調査されないのも納得がいかない話である。むしろ疑われている内圧による破裂を証明する絶好のものではないか。520もの命が失われたのだから引き揚げて墜落理由を確定してしかるべきだと思うのだが。

さらに、仮に墜落場所がすぐに特定できなくても、群馬県と長野県の県境近くに墜落したということは推測できたのだから、即急にとにかく墜落地点探索を兼ねての空からの救助隊を出すべきだったのではないのかという疑義に対し、当局側が「夜間に山間に降下するのは二次災害の恐れがある」として決行しなかったと言ったというのも驚かせる。救助隊の方がケガしちゃうから明るくなるまで待ったというのだ。(というか、朝まで墜落位置は分からなかったんじゃないのか!?)墜落地点に近い群馬県上野村の消防団の人たちが「地元のわれわれなら夜間でも墜落地点まで行ける。すぐに救出活動に入るべきだ」と主張したのに、自衛隊に止められたという話もある。

しかし自衛隊の不始末隠蔽説についても、私にはひっかかることがいくつかある。

ひとつは、自衛隊の(私は自衛隊が真犯人とは断言できないので上記ではずっと、軍事飛行物体という表現を使った)判断、行動が早すぎることである。今言ったように、123便が垂直尾翼を失ってから墜落するまでは、わずか32分間のできごとである。この間にこれだけの確認と準備、実行をしたとは、何につけ判断、行動開始でもたもたする日本のお上にしては異常な素早さだ。自衛隊機は24時間スクランブル待機しているのですぐに発進できるらしいが、それにしても出現が早すぎるし、特殊部隊の訓練場所に近いところを不時着指定して誘導し、証拠隠滅を狙うというのは、とっさの判断としては悪魔がかっている。もっとも短い時間しかなかったから、このような思い切り過ぎた異常な判断しかできなかったということなのかもしれず、むしろ当局が隠したかったのは、123便の垂直尾翼を誤って破壊したことではなく、その後のあわてふためいてやってしまった処置のほうだったということなのかもしれない。

次に123便を目撃した者が少なすぎる気がすることである。上述の藤枝市の女性の証言によれば、123便は少なくとも藤枝市付近では、低空飛行になっているのだが、これはもっとたくさんの目撃者がいてもいい気がする。(事故調査委員会の公式発表ではもっと高空を飛んでいたことになっている)もちろんいないことはないのだが少ない。写真が撮られていてもおかしくないと思うのだが。しかし、件の女性も「見てはならないものを見てしまったような気がして」ということでなかば無意識に記憶から遠ざけ、30年も過ぎてから証言しているので、多くの人が半ば無意識に忘れようとしている、口をつぐんでいるということなのかもしれない。あるいは、ほぼ薄暮に近かったので、123便の外見の異常に気づいた人は少なかったのかもしれない。

また、管制当局のレーダー監視者などもファントム機の存在をレーダーで知っていたはずになるが、そこらからの証言もないのも変な話である。これは同じ穴の狢かもしれないし、やはり怖くて言えないのかもしれないし、もしかしたらすでに……。ともあれ真実がどこにあるにせよ、日航の整備マネージャーなど、いくらかの関係者がすでに死に追い込まれているのは事実である。

また、夕暮れの人里遠い山間部とはいえ、誰が見ているかもしれないのに、よくミサイルなど発射させたなということがある。でもこれは、「飛行機が飛んで行ったあとから、流れ星のようなものが飛んでいくのが見えた」「飛行機が追いかけっこしてた」という目撃証言(この証言は当時の新聞に載った)があるので足がついているというべきか。あと飛行機が「火を噴いて」落ちていくのもたくさんの人に目撃されている。垂直尾翼の消失による操縦不能が墜落原因なら、火を噴く道理はあるまい。というか、これらはかなり決定的な証言ではなかろうか。

しかし私にとって何より理解しがたいのは、こんな行為をお上が本当に命令した、特殊部隊とはいえ実行した、ということだ。想像もつかない。「日本のお上は国民なんて国に奉仕すべき使い捨てロボットくらいにしか見ていない」などという発言をこのブログではばからずにしている私でさえそう思うのである。こんなことを同国人が同国人にできるなんて思えない(他国人でもやってはいけないが)。いくら日本人が組織優先主義だとはいえ、ここまでの大非道を犯して、自分たちの組織を守るなど信じられないのだ。実行した隊員たちにしてもそうだ。命令通りやるのが軍隊かもしれないが、こんな命令を実行したら、そのうち口封じに命を奪われかねないのだ。私は見てない資料なのだが、自衛隊員の自殺者公表数はこの墜落の翌年で異常に跳ねあがっているという。しかもこの年から5年前にさかのぼって突然自殺者数を発表するようになったのだという。それはこの事件に関係した多くの隊員の死、つまり口封じの抹殺を自殺と見せかけるためだと一部では言われている。

なるほど実は私の見方が甘いのかもしれない。私などが思っている以上に、日本のお上や組織至上主義者たちは非情非道、理解しがたい精神構造をしているのかもしれない。あるいは前述のように、単に(単に、で済ましてはいけないが)即座の対応に慌てたため、ここまでひどいことをやらかしてしまったのかもしれない。しかし、ミサイルは他国のものだったということも考えられないことではない。日本には米軍が駐屯しているのだから。むしろその場合の方が、ここまでやるのはありうることといえるだろう。ミサイルを当てたのが米軍だと日本国民が知ったらどうなるか考えてみていただきたい。真相はどんな手を使ってでも秘匿されなければならないと日本政府が考えても、「非道ではある」が、「不思議ではなくなる」のである。もっとも、だから米軍機がミサイルを撃ったとまでは言うつもりはない。ただその可能性はあるということだ。

以上、長々と書かせてもらったが、私の印象では、この日航機123便墜落、関心のない人たちはともかく、それなりに興味を持った方はほとんどが(兵器関与説は陰謀論だと喚いている人も含めて)、国の公式見解である「圧力隔壁自壊説」は嘘であり、真相は別にあることに気づいているように思われる。ただ「それが真相だ!」と思わず口を手にやってしまうような仮説が出てないのと(上述したが無人標的機が垂直尾翼に当たったというのは無理がありすぎる)、お上は必死に隠そうとしているようだし、なんだか真相をあばくと、かえってまずい事態になるんじゃないか、触らぬ神に祟りなしという日本人的な何となくの忖度とで、真相追及に積極的にならないだけのように思える。そしてネットには、公式見解以外の原因は「陰謀論」のひとことで片付けたがる連中が明らかに跋扈している。

しかし私はこの墜落、いずれ真相が分かると思っている。もうすぐ関係者も鬼籍に入るのもあるが、アメリカは50年たてば情報を公開する法律があるし、正直なところ事態は、消去法と帰納法で考えればそんなに難しい話ではないと思うからだ。

真実が判明しなければ、人間はいつまでも過去から解放されることはない。

10年ぶりに自画像を描く

 私はあまり自画像は描きませんが、前描いたのがちょうど10年前の2012年だったので、ちょうど区切りもいいので描いてみました。自画像描いたら描いたでまた自分のこと何か分かるかもしれないとも思いまして。まず10年前、2012年の自画像から。 自画像   27.2×22㎝ 油彩 20...